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あばれ山車の歴史

現在の地に諏訪神社が最初に建てられたのは、天平年中(730年頃、奈良時代)とされており、のちの永承年中(1050年頃、平安時代)になってからは、毎年7月27日に神事が行われていたといわれております。

その後、天正13年8月(1585年、戦国時代)に伊達政宗との戦いで針道館(はりみちたて)を守っていた針道源太(はりみちげんた)が滅ぼされると、諏訪神社も荒廃してしまい、江戸時代の始めに再建されるも、雷火に見舞われるなどして継続的には神事が行われていませんでした。

のちの宝暦8年(1758年、九代将軍徳川家重の時代)になって、当時の針道村内で凶作が続き、疫病も大流行、当時の人々は災いの原因は神輿渡御を永い間行ってこなかったことにあると考え、神輿渡御(みこしとぎょ)を復活させました。
この時、安積郡大槻村(現在の郡山市大槻町)から獅子頭を買い求め、神楽を行ったとされています。
その頃、人形を飾り付けた山車(だし)、獅子踊りを奉納したのが、この「あばれ山車」の始まりと伝えられています。

安永元年(1772年、十代将軍徳川家治の時代)に幕と人形一式が奉納されたが、天明の飢饉によって一時中断になり、凶作から立ち直った天明8年(1788年)に盛大に復興を遂げました。
寛政年間(1790年頃)には、人形に美しく飾りつけた屋台とともに「にわか」という文字通り即興の狂言芝居も行われ、寛政8年(1796年、ナポレオン活躍の頃)には、若衆が太鼓台を新築して 町通りを練り歩き、寛政11年になって、神々しく新調された神輿が一層「針道の諏訪まつり」として知れわたりましたが狂言芝居は禁止されてしまいました。

文久3年4月(1863年、新撰組結成の頃)、神社に正一位の宣下がありいっそう祭りを有名にしましたが、時代は幕末の世に差し掛かり祭礼は自粛を余儀なくされました。

昭和2年(1927年)、諏訪神社は村社から郷社に昇格し、県庁から供進使が来ることになり「針道祭り」は時代に順応して新しい試みが行われ、祭礼最後の日は「針道けんか祭り」と言われる賑やかさになりました。

激しい雨に見舞われた際にそれぞれの事務所に戻ろうと山車を押し急ぐあまりに山車間でぶつかる様が「あばれ山車」の始まりであって、これは若い力と自然の成り行きから生じものであろうと思われます。

現在の開催は10月ですが、以前は旧暦の7月27日(現在の9月5日)に行われていました。
その後、明治11年に太陽暦に改正されると9月17日、18日の両日に変わりました。

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